2024年05月22日
桑名を訪ねて
近鉄電車に乗って三重県桑名に行って
きました。
東海道五十三次の42番目の宿です。

桑名と41番目の宮(愛知県熱田)の間、
当時は海路が一般的だったようで、この
間は七里の渡(しちりのわたし)の名で
船が行き交っていました。
七里の渡とは、海路が約27キロ(約七里)
あったため、そう呼ばれていたようです。
ここから陸路は伊勢路ということで、
鳥居がシンボルとしてあるようです。

七里の渡の桑名側には、船の航行を
見守る蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)と呼ば
れていた建物があり、今はその建物を
模して水門を管理監視する建物として
再現されています。

41番目の宮宿は宿の数では東海道の
中で一番多く、桑名はそれに次ぐ規模
だったようです。

東海道はこの先43番目の四日市へ続き、
この道が近江を経て京へ至るわけです。

道路にあったマンホールのデザインは、
さすが七里の渡が描かれていました。

このあと、桑名城跡を見に行きます。

このあたり一帯は九華(きゅうか)公園と
呼ばれ、市民の憩いの場のようです。
公園入口には、本多忠勝の銅像が鎮座
しています。
本多忠勝は、徳川家康の家臣であり、
桑名藩の初代藩主。

城跡を思わせるような石垣などは無く、
掘りのような水路のようなものがあり、
城跡公園のような佇まいです。




桑名城のシンボル的存在の
辰巳櫓(たつみやぐら)の跡が
唯一の城跡らしいものでした。




駅へ向かう途中、海蔵寺というお寺を
見学。

薩摩藩義士のお墓…とある。
何故こんな場所に薩摩藩が?
と思ってスマホで調べてみると、
木曽三川(木曽、揖斐、長良)の下流域の
洪水を防ぐため、江戸幕府が薩摩藩に
三川分流工事を命じたとあります。
工事に携わった薩摩藩は900人以上にも
及び、難工事の上、1年ほどの短期間の
工事だったためか、幕府への抗議や病死
など含めて100人近い人が命を落とした
そうで、このお寺にはその犠牲者の
一部の人のお墓があるということです。

桑名といえば焼きハマグリです。
「その手は桑名の焼きはまぐり」
桑名 と 食わない を掛けたもので、
その手には乗らないよ…という洒落
言葉で、付け足し言葉とも呼ぶそうです。
例えば…
驚き 桃の木 山椒の木
結構 毛だらけ 猫灰だらけ
…のような具合。
江戸時代、桑名のハマグリはこの近くの
富田(現 四日市)で採れたものが多く、
富田が桑名藩の管轄だったため、
「桑名の焼きはまぐり」と呼ばれたよう
です。
桑名の次の宿が四日市なので、
「その手は桑名の四日市」という
洒落言葉もあるらしいですが、これは
全国区では無さそうです。
洒落言葉は、その地方だけで言われて
いるローカルなものと、日本中に知れ
渡っているものとあるような気がします。
ハマグリ、最近は中国産もあるようで、
時代の流れを感じてしまいます。

東海道五十三次を昔の人はどんな
理由で、どんな日程で歩き通したのか
調べてみたくなりました。
再び近鉄電車に乗って帰路につきました。
きました。
東海道五十三次の42番目の宿です。

桑名と41番目の宮(愛知県熱田)の間、
当時は海路が一般的だったようで、この
間は七里の渡(しちりのわたし)の名で
船が行き交っていました。
七里の渡とは、海路が約27キロ(約七里)
あったため、そう呼ばれていたようです。
ここから陸路は伊勢路ということで、
鳥居がシンボルとしてあるようです。

七里の渡の桑名側には、船の航行を
見守る蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)と呼ば
れていた建物があり、今はその建物を
模して水門を管理監視する建物として
再現されています。

41番目の宮宿は宿の数では東海道の
中で一番多く、桑名はそれに次ぐ規模
だったようです。

東海道はこの先43番目の四日市へ続き、
この道が近江を経て京へ至るわけです。

道路にあったマンホールのデザインは、
さすが七里の渡が描かれていました。

このあと、桑名城跡を見に行きます。

このあたり一帯は九華(きゅうか)公園と
呼ばれ、市民の憩いの場のようです。
公園入口には、本多忠勝の銅像が鎮座
しています。
本多忠勝は、徳川家康の家臣であり、
桑名藩の初代藩主。

城跡を思わせるような石垣などは無く、
掘りのような水路のようなものがあり、
城跡公園のような佇まいです。




桑名城のシンボル的存在の
辰巳櫓(たつみやぐら)の跡が
唯一の城跡らしいものでした。




駅へ向かう途中、海蔵寺というお寺を
見学。

薩摩藩義士のお墓…とある。
何故こんな場所に薩摩藩が?
と思ってスマホで調べてみると、
木曽三川(木曽、揖斐、長良)の下流域の
洪水を防ぐため、江戸幕府が薩摩藩に
三川分流工事を命じたとあります。
工事に携わった薩摩藩は900人以上にも
及び、難工事の上、1年ほどの短期間の
工事だったためか、幕府への抗議や病死
など含めて100人近い人が命を落とした
そうで、このお寺にはその犠牲者の
一部の人のお墓があるということです。

桑名といえば焼きハマグリです。
「その手は桑名の焼きはまぐり」
桑名 と 食わない を掛けたもので、
その手には乗らないよ…という洒落
言葉で、付け足し言葉とも呼ぶそうです。
例えば…
驚き 桃の木 山椒の木
結構 毛だらけ 猫灰だらけ
…のような具合。
江戸時代、桑名のハマグリはこの近くの
富田(現 四日市)で採れたものが多く、
富田が桑名藩の管轄だったため、
「桑名の焼きはまぐり」と呼ばれたよう
です。
桑名の次の宿が四日市なので、
「その手は桑名の四日市」という
洒落言葉もあるらしいですが、これは
全国区では無さそうです。
洒落言葉は、その地方だけで言われて
いるローカルなものと、日本中に知れ
渡っているものとあるような気がします。
ハマグリ、最近は中国産もあるようで、
時代の流れを感じてしまいます。


東海道五十三次を昔の人はどんな
理由で、どんな日程で歩き通したのか
調べてみたくなりました。
再び近鉄電車に乗って帰路につきました。
